2014年2月18日火曜日

英語初級のころ:私の英語史

Q.英語を勉強し始めた頃はどんな感じでしたか?という質問があったのでお答えしたいと思います。


ちょっと長くなりますが、自己紹介をかねてちょっと書きたいと思います。

結構おどろかれるのですが、英語は、苦手でした。中学のときの成績は、どんなにがんばっても5段階評価の5にはならず、3と4の間、という感じでした。

そんな私が、ある人との出会いで、英語にのめり込んでいくのです。


私の英語学習歴

■ はじまり

わたしは小学校6年生のとき、英語の歌やちょっとした単語を覚えることからはじめました。それも、塾や英会話に通うのではなく、家で母親といっしょに、楽しみながら勉強しよう、という感じで。

中学にはいって、英語が必修になり、本格的に「勉強」し始めました。はじめは、新しい科目にどきどきわくわくでしたが、だんだんつまらなくなり、苦手な科目になりました

というのも、学校の授業では英語の勉強の仕方や英語はどういうものか、ということを十分に理解できなかったからです。

塾に通わなかったので英語の文法もよくわからないし、語彙の勉強の仕方もわからない。授業ではだんだんわからなくなり、テストの点数もさがる一方でした。英語は高校受験のための大事な科目、点数だけとれるようにがんばろう。そう思って勉強しても、おもしろくないしどうしていいかもわからない。それで、だんだん英語が苦手だと思うようになりました。わたしは、「なんで英語なんか勉強しなくちゃいけないんだろう?」と悶々と悩み、苦手科目から自己逃避をしていました。


■ ところが、中学2年の夏。ガリ勉しない英語の学習法

転機が訪れました。ひょんなことから、中学校に配属になったカナダ人の先生(今で言うALT)と仲良くなったのです。それも彼女は金髪の長い髪、青い目のとっても美人!!「異国の人」という雰囲気の彼女に、14歳の私はあこがれを強く持つように。

「あ〜、お友達になりたいな。もっとたくさんお話ししたい。」そんな勝手な妄想から、私の英語人生はスタートしました

当時は、海外からネイティブスピーカーの英語の先生を日本へよぶJET Programがはじまって間もないころでした。わたしの住んでいた町では、ALTが一人しかおらず、彼女は毎月、町中の学校を1週間単位で移動します。うちの学校には毎月一度、1週間程度配属になりました。

それから、私の月1の職員室通いがはじまります。

放課後、その先生(カレンさん)と話がしたくて3つくらいの質問を英語で紙に書き、図々しくもカレンさんのデスクに通いつめました。それはまるで、ハリウッドスターにあこがれ、ファンレターを手に通うおっかけそのものでした。

わたしの通い妻のような迷惑な情熱も、カレンさんは本当にやさしく受け入れてくれ、異文化に対してとても興味のある人だったので、私とのつじつまのあわない、つたない会話でも楽しんで聞いてくれました。彼女とのやりとりで、「英語の通じる楽しさ」をおぼえたわたしは、それから英会話にのめり込んでいきます。

話すことが楽しくなり、勉強にも身が入るようになりました。「今度会うときは、どんなことを話そう?」そう考えながら勉強し、英語を勉強する目的をみつけました。今思えば、カレンさんと話すために英語を勉強するというのはかなりささやかな目標でしたね。でも14歳のわたしはそれなりの真剣さでそれに向かって突っ走る、そんな時でした。


■ 月一の職員室通い

言いたいことを3つ、紙に書いていっても、会話は5分で終わってしまいます(笑 話を続かせるためには、私の言いたいことをいうのではなく、質問をたくさん聞いて相手のことをもっと知るというのが大事だと思い、教科書から疑問文をたくさん抜き出しそれをメモとして持っていきました。それから、話すときは紙ではなくカレンさんの目をみて話すことにしました。

まあ、その他にもいろいろ工夫したところがあったのですが、長くなるのでここでは割愛します(笑

その後、カレンさんとの個人的な交流は深まっていきました。私の誕生日に彼女を家に招待したことにはじまって、何度か夕食を食べにうちまで遊びにきてくれるようになりました。

その頃は、英語のテストの点は気にしなくなりました。私はただ単に、彼女との会話に魅せられ、どうしたら通じる英語が話せるか、聞けるか、そのことだけに集中して勉強していきました。テストの点は相変わらず80点台前半で、90点以上になることはありませんでした。英語の成績も、どんなにがんばっても結局4どまり。

でも、わたしにはほかの人にない英語への情熱と、会話を成立させるためのコミュニケーションスキルというものをカレンさんとの会話を通して学んだ、という自負が幼いながらにもありました。


■ 16歳の夏、カナダへ!

早送りして、高校1年生。とうとうカレンさんの任期がきれ、カナダに帰ることになりました。私の誕生日におよびして、家でホームパーティーを開いたときのこと。「今度の7月にカナダに帰るけど、夏休みの間にうちにホームステイに遊びに来ない?」そう、彼女が誘ってくれて、私は高校1年の夏、あこがれの先生の家に遊びに行きます。

16歳の夏、はじめての異国で、親もいない。英語もろくにできない。でも、ずっとお世話になっているカナダ人(日本語はまったくはなさない)の先生の家に2週間とまらせてもらいました。

空気のにおいも、人の様子も、町の感じもちがう。日本の8月とはちがい、カラッとはれて、夕方は雷のなる雨。夜になると半袖では肌寒く、夏なのに厚手のトレーナーを着なくてはいけない、というそんな些細なことでさえ、とても新鮮で、とても興味深く、わたしの異国へのあこがれはますます深まるばかり。

一番感動したのは、車で町の外を走ると、何もない自然がたんたんと広がり、地平線が180度見える、ということでした。茨城県の山と海に囲まれた田舎育ちのわたしには、その広々とした、清々とした、潔いとまでいえるほど何もない、大きな大地にあこがれを強く抱きます。

「もう一度、ここに戻ってこよう」

そう思って、カナダをあとにし、日本へ戻りました。


■ その後の英語人生

16歳の夏、また海外へ出るぞ!と強い決意をもって英語の勉強にはげみます。カレンさんとはときどき国際電話をかけて話したり、エアメールを書いて送ったりしました。カレンさんの紹介で同じ高校生のロビンという女の子と文通もはじめ、私は異国語で書かれた手紙を郵便受けでみつけるのが楽しみになっていきました。

と、まあふつうの高校生とはちょっと違う英語学習歴かもしれませんが、そのまま高校で習う受験英語を自分は「会話にはどう利用したらいいか?」を模索しながら一人で勉学に励んでいました。

17歳の夏、アメリカ人の高校生と2週間夏合宿しませんか?というお誘いが、私の通う高校でありました。AIGという保険会社が主催で、アメリカの高校生24名が日本へ来て、私たち24名の日本人高校生が合宿に参加し文化交流するというものです。

アメリカ人高校生と話すことも興味があったし、「東京ディズニーランドにただでいけるぞ!」という英語教諭からのお言葉。私は迷わず即参加(笑 交通費、宿泊費などすべて保険会社が負担してくれたので、私たち高校生はタダで2週間の異文化交流会に参加することができたのでした。

進学校に通っていたので、英会話や異文化交流に興味のあるようなものはわたしくらいしかおらず、ラッキーにも私が学校の代表でそのサマーキャンプへ参加できることになりました。

そして、運命的な(?)出会い。そこでハンサムな優しいアメリカ人青年と出会い恋に落ちます。

高校生にありがちな、短い夏の恋でした。

とってもドラマチックに書いていますが、実はその彼が26歳のとき結婚した今の夫です。びっくりでしょう?わたしも自分でびっくりです。今でも。

その後いろいろあり、日本の地元の大学を卒業後アメリカへ留学し、そのままアメリカに住んでいます。13歳の英語嫌いだった頃から考えると、今私がアメリカで10年以上も住み仕事をし出産をし日英のバイリンガル育児に奮闘しているなどと誰が想像したでしょうか。自分でもびっくりです。人生、何があるかわかりませんね。



関連記事
米在住の日本人バイリンガルに、その方の英語史、英語とは?をインタビューしています。日本語、英語の両方で書いてあります。英語の勉強にもどうぞ!

我流英語道の極め方:ハンセン由美子さんのインタビュー記事その1
我流英語道の極め方:ハンセン由美子さんのインタビュー記事その2
追記:ハンセンさんのホームステイ問題

0 件のコメント:

コメントを投稿

ぜひご意見ご感想をお聞かせください。ブログ継続のやる気につながります!